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朧げな何か

無意識にアクセスしたいと歩き回る日々

廃寺探訪〜山田寺跡〜

フィールドワーク


2015年9月19日。乙巳の変にて、従兄弟で宗家筋の蘇我入鹿暗殺の片棒を担ぎ、大化の改新時には右大臣として政権の中枢を担うも、冤罪により自害に追い込まれた蘇我倉山田石川麻呂。その蘇我倉山田石川麻呂が発願し創建された山田廃寺を訪れてみた。

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石川麻呂死後もコツコツと造営され、五重塔、金堂、講堂が一直線上に並ぶ四天王寺式の伽藍を擁するまでになったが、今はだだっ広い草むらがあるだけだった。

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当時の面影を残すであろう五重塔や金堂の土台跡を視認するも、草が想像以上に伸びており、マムシ注意の看板と相まって心が折れて近づけず。

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かつての講堂跡に、ひっそりと小さな観音堂が存在するも、これは廃仏毀釈で廃寺となった後に再建されたものだそうなので、往時の山田寺を偲ぶことはできない。

ちなみに、山田寺講堂で本尊として安置されていた薬師三尊像は、1187年に興福寺の僧兵に略奪されたとのこと。興福寺所蔵の国宝・銅造仏頭は、この山田寺講堂から略奪された薬師三尊像の頭部。

興福寺のホームページを覗いてみると……

天武14年(685)に、天皇が亡き蘇我倉山田石川麻呂のために造った飛鳥山田寺講堂本尊像の頭部です。像は興福寺の鎌倉再興期の文治3年(1187)に東金堂本尊薬師如来像として迎えられましたが、応永18年(1411)に堂とともに被災します。幸い残った頭部が応永22年(1415)に再興された現東金堂本尊台座に納められ、昭和12年(1937)に発見されました。造立年代が明らかであるところから、白鳳彫刻の基準作として高く評価されます。

[ 銅造仏頭(どうぞうぶっとう)(旧東金堂本尊) | 「国宝」「重要文化財」 | 文化財 | 法相宗大本山 興福寺]

興福寺の見解では、略奪ではなく「お迎え」したらしい。興福寺の過去の傍若無人っぷりはまたの機会で存分に述べたいと思う。

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小さな観音堂の脇には謎の石碑があった。「雪冤の碑」というらしく、石川麻呂の子孫・山田重貞が建立。碑文は幕末の三筆の一人・貫名菘翁。そう、この碑は1841年に立てられたのである。

約1200年の時を経てもご先祖様の無念を晴らそうとする健気な子孫がいるかと思えば、讒訴で石川麻呂に罪を着せたのは兄弟である蘇我日向。この蘇我日向についてちょいと調べてみたら……

644年(皇極天皇3年)中大兄皇子(後の天智天皇)と日向の異母兄蘇我倉山田石川麻呂の娘が婚約した夜にその娘と密通した。649年(大化5年)日向は「石川麻呂が中大兄皇子を殺害しようとした」と讒言、軍を率いて石川麻呂を追討し、石川麻呂は自害して果てた。その後石川麻呂の無実が明らかとなり、中大兄皇子は日向を筑紫国の筑紫宰としたが、世間ではこれを隠流し(かくしながし、あるいはしのびながし)と評したという。

[ 蘇我日向 - Wikipedia]

讒訴だけでなく、寝取りまで働く鬼畜野郎だったとは。もう一人の石川麻呂の兄弟・蘇我赤兄有間皇子を嵌め込んでる。石川麻呂、有間皇子の件は両方ともに、黒幕は中大兄皇子天智天皇)&中臣鎌足藤原鎌足)だともいわれている。

話は逸れるが、蘇我入鹿を打倒して権力を掌握した中大兄皇子だが、鎌足死後は蘇我氏を重用したようで、石川麻呂の鬼畜兄弟の一人・蘇我赤兄左大臣にまで上りつめ、もう一人の兄弟・蘇我果安も重用されている。

もし、壬申の乱大友皇子側が勝利したならば、再び天皇家外戚となり摂関政治を行ったのは藤原氏ではなく蘇我氏だった可能性もある。

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日の当たらぬ場所で咲く彼岸花はいかにも蘇我倉山田石川麻呂に相応しいように思われたが、山田廃寺は総じて黙して何も語らなかった。

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天智と天武 兄弟天皇の謎 (別冊宝島 2328)

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