朧げな何か

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神仏習合の様子が伺える手向山八幡宮の祭礼「転害会」



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もう昨年のことになるが、東大寺三月堂の側でひっそりと鎮座する手向山八幡宮の祭礼「転害会」を見学。手向山八幡宮宮司らしき方と、東大寺の僧侶らしき方がニッコリ笑いながら記念撮影に応じておられた様子は、まさに現代の「神仏習合」ともいえる光景だったが……

奈良地域関連資料画像データベースから『転害会図会』という絵巻物が閲覧でき、かつての転害会の「神仏習合」っぷりが窺える(「○○祭」ではなく「○○会」という時点で仏教色が濃厚なのだが)。

 手掻会(転害会もしくは碾磑会とも)は、八幡神が宇佐から影向した神迎えの様子を再現した行事で、毎年五月、神輿3基の渡御、神供・祭式のほか、田楽・舞楽の奉納が行われました。

 天文8年(1539)までは勅祭として行われ、それ以降も郷民たちの手によって行われましたが、神仏分離の影響もあり、行列は途絶、現在では祭式のみが神社内と転害門で行われています。

八幡神」についてはまた別の機会でじっくり考察してみたいと思うが、宇佐八幡宮からどうして八幡神が影向したかは下記の書籍やwikiにも記載がある。

要は神である八幡神が「聖武天皇による大仏建立事業を完成へと導きたい」との思し召しで影向したというのである。

面白いのは一気に平城京へは入京せず、平群の地に作られた梨原宮という神宮で一旦鎮座したこと。ワンクッションおいている点が、この時代の何ともいえない神と仏の微妙な距離を感じさせる。

その後、無節操なまでに神仏の習合が進んだ中世には、八幡神はとうとう出家までする始末。有名な快慶作の木造僧形八幡神像はもともと手向山八幡宮に祀られていた。

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現在の転害会の主役は、八幡神ではなく完全に「小さな巫女さん」のようだった。